1906 |
国際モーターサイクルカップがオーストリアで開催されたが、不正行為が多発し、対策の為、翌年のレースは、公道用モーターサイクルを使い、マン島での公道閉鎖コースでの自動車競技をベースに行うことに決定。
トライアンフ・サイクル社:トライアンフ・エンジニアリング社(Triumph Engineering Co.Ltd)」に社名変更
アグスタ(MVアグスタの親会社):アグスタ伯爵家のジョバンニ・アグスタが製作した飛行機がイタリアで初飛行 アグスタ伯爵は飛行機会社「カプローニ航空機」の経営に参加し、会社運営のノウハウを学ぶ。
本田宗一郎:誕生 |
1907 |
第1回マン島TTレース:単気筒クラス:マチレス433cc(JAP製エンジン):4Hours、61.49km.h、3km/L、2気筒クラス:ノートン
2クラス:単気筒マシンで平均燃費90mpg、2気筒クラスで平均燃費75mpg、公道仕様モーターサイクルはサドル、ペダル、マッドガード、排気サイレンサーに対し規定:レギュレーションが決定された。
マウンテンコースは完走がおぼつかない為、未使用1907年に細目系列のBSF(British
standard Whitworth fine screw threads)が追加された
カンボジア:シャム(タイ)からアンコール付近の領土を奪回 |
1908 |
第2回マン島TTレース:トライアンフ:40.49mph 単気筒:100mpg、2気筒:80mpg、ペダル:使用は禁止
T型フォード発売、ファイヤストーン社が公式サプライヤーとなる。 |
1909 |
第3回マン島TTレース:単気筒:500cc、2気筒:750cc、廃止:燃費規定、排気サイレンサー
ジレラ:ジュゼッペ・ジレラが創業 世界で初めてオートバイを市販
ダイムラー社:ダイムラーが死亡、マイバッハが会社を離れる
伊藤博文暗殺:安重根 伊藤博文は朝鮮併合には反対であったといわれる |
1910 |
第3回マン島TTレース:単気筒:500cc、2気筒:670cc、 ローヤル・エンフィールド:425ccV2エンジン(2.25馬力)を開発 機械式オイルポンプ搭載 |
1911 |
第4回マン島TTレースマン島マウンテンコース(約60km、カブ:200以上 標高:0m~3999m):使用開始
ジュニアTTレース:300cc単気筒、340cc2気筒 ハンバー:3時間37分7秒 平均時速41.45mph。
セニアTTレース:500cc単気筒、585cc2気筒 インディアン:3時間56分10秒 平均時速47.63mph
オットー社:グスタフ・オットーが創立 航空機会社 機体を製造 ラップ製エンジンを搭載 |
1912 |
サンビーム:オートバイ生産開始 JAP製エンジン、ロンドン-エクスター間往復レースの2つのクラスで優勝
マン島TTレース:ジュニアTT:350cc-単気筒/2気筒、セニアTTレース:500cc-単気筒/2気筒
大正元年 |
1913 |
オート=サイクル・クラブの代表がトミー・ラフボローからフレディ・ストレートへと交代
マン島TTレース:ジュニアTTレース--2つに分離(2周/4周)、セニアTTレース:7周、ジュニアTTレース(4周)組みとしてスタート
RMW:Rupp Motoren Weker 創立 航空機エンジンの製造 185ps
バルカン戦争:開始 |
1914 |
第一次世界大戦:開戦
マン島TTレース:ヘルメット着用が義務、ジュニアTT:5周 AJS:4時間6分50秒
平均時速45.58mph
トライアンフ:モデルH(3万台)を軍に納入
マックス・フリッツ博士:オーストリア・ダイムラー社から、オットー社に転職
サラエボ事件:オーストリアの皇太子がサラエボ青年によって暗殺 |
1915 |
1920年まで、マン島TTレースは中止
エジソン、フォード、ファイヤーストーンのトリオ:1週間から2週間ほどのオートキャンププツアーは1915年から1924年の9年間。
1921年には第29代合衆国大統領ハーディングも参加、このキャンプツアーのニュース配信は、アメリカの道路、モーテル等の発達の契機となる |
1916 |
オットー社:バイエルン航空機製造会社(Bayerische Flugzeug Werke(BFW)に社名を変更 |
1917 |
RMW:BMW Bayerishe Motoren Weker GmbH(有限会社)に社名変更
ロシア革命(2月革命、10月革命) |