1980 |
HICOM(マレーシア重工業公社):設立 BMW:モノレバーをR80GSに採用 |
1981 |
ハーレー:AMFから独立 79年にプロトタイプ「Mark I」が供給開始、81年にMark
II(後にインターポールII(Interpoll II)となります)が発売されます |
1982 |
スズキ:GPから撤退 WGP:GP350廃止
株式会社ホンダ・レーシング設立:がRSC(1973年に本田技研工業と別会社として設立)、およびNRテクノロジーグループに代わる
HONDA:NS500(2スト 112度 3気筒 前バンク・1、後ろバンク・2)をWGP500に投入
カンボジア:巻き返しを図る反ベトナム三派(ポル・ポト、シハヌーク、ソン・サン)は北京で会談を開き、7月には三派による「民主カンプチア連合政府」(The
Coalition Government of Democratic Kampuchea:CGDK)が成立し、サムリン政権と内戦状態 |
1983 |
トライアンフ:倒産 DUCATI:カジバと提携 プロトン(マレーシア)設立:DRB-HICOM:70%、三菱自動車:15%、三菱商事:15% 国民車構想 WGP:GP50廃止 スズキ:RGB500の開発停止
HONDA:F・スペンサーが、WGP500タイトルを奪取
HONDA:NS500にATAC(排気デバイス チャンバー容量を可変)を搭載
カンボジア:インドシナ3国首脳会談でベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、3月にベトナム軍はポル・ポト派の拠点を攻撃 |
1984 |
実業家ジョン・ブルーア):トライアンフの商標権や生産権を購入 GP500:YAMAHA エディ・ローソン
HONDA:NSR500(V型90度4気筒 タンクが下、排気管がタンクの位置)を投入、NS500と平行して使用
カンボジア:東南アジア諸国連合外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入を継続 |
1985 |
カジバ:DUCATIを買収
HONDA:NSR500をコンベンシャナルなタンク、排気チャンバー位置に変更カンボジア:ベトナムは1月に民主カンプチア連合政府の拠点を攻略、3月にシハヌーク国王派の拠点を制圧 |
1986 |
ハクスバーナ:オートバイ部門をカジバ・グループに売却 12月:日本のバブル景気始まり 富士スポードウェイ:存続が決定 GP500:YAMAHA エディ・ローソン |
1987 |
カジバ:モトモリーニを買収 ビューエル:販売開始
BMW:リヤ・パラレバー、クロススポーク・ホイール(ワイヤー・スポークでチューブレス・タイヤ)をR100GS/R80GSに採用、
HONDA:NSR500のVバンクを112度に変更、キャブの収納ため。、
RS750(90度V型4気筒、オーバーオール・ピストン、8バルブ/気筒):ルマン24時間に参戦するもリタイア
(株)ホンダランド:(株)鈴鹿サーキットランドに商号変更し、三重県鈴鹿市に本店移転 鈴鹿サーキット:ランオフエリア確保の為に、デグナカーブを2つのカーブに分割 鈴鹿サーキット:F-1再開 (1977年の富士スピードウェイでの事故以降、日本国内では開催中止) 菅生サーキット:コース改修、現在のコースレイアウトになる |
1988 |
ノートン:復活 コマンダーは水冷ロータリー・エンジン GP500:YAMAHA エディ・ローソン スズキ:GPに復帰
スーパーバイク世界選手権(WSB:World Superbike Championship)開始
市販車ベースの4スト、ホモロゲ:150台以上、4気筒・750cc、2気筒・1000cc
カンボジア:ベトナム首相ファン・フンが急死し、政変が起こると、6月にベトナムは軍の撤収をはじめ、 |
1989 |
富士スポードウェイ:富士GC廃止 中山サーキット:コース改修、全長2007m 浅間記念館:開館 WGP:GP80廃止
カンボジア:9月にベトナムが撤退を終了。その結果、ベトナム軍の支援を失ったフン・セン政権は弱体化し、内戦は更に泥沼化 |