1969 |
MVアグスタ:WGPの500cc ワールドチャンピオン MVアグスタ:WGPの500cc メーカータイトル
ジレラ:ピアジオ傘下
ホンダ:F1撤退 スズキ:GP撤退 日本自動車研究所「前身は(財)自動車高速試験場」:発足 東名高速道路開通中津川フォークジャンボリー
開始 8時だよ!全員集合、サザエさん:放送開始
7月20日: ポロ11号が人類初の月着陸 |
1970 |
MVアグスタ:WGPの500cc ワールドチャンピオン MVアグスタ:WGPの500cc メーカータイトル
アリエル:アリエル3を発表(1980年代には二輪車部門も含めたすべての活動を休止)
ノートン:ファストバックに改良を加え、名車として名高いコマンドー・ロードスター(Commando
Roadster)を発表
ロイヤル・エンフィールド:倒産 残っていた200基のインターセプター・エンジンはリックマン(メーカーではありませんが、フレームビルダーとして名を馳せたことに始まり、他社マシンをベースにしたレースマシンの生産で時代の寵児となっていました。日本で言えばヨシムラのイメージでしょうか)に売却され、リックマン-マチス・レーサーに用いられました。
マスキー法:
カの上院議員、エドムンド・マスキーの提案によるためこの通称で呼ばれる。 正式には大気浄化法改正案第二章と言う。
特に、自動車の排気ガス規制に関してこの用語は引き合いに出されることが多い。
内容としては
* 1975年以降に製造する自動車の排気ガス中の一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)の排出量を1970-1971年型の1/10以下にする
* 1976年以降に製造する自動車の排気ガス中の窒素酸化物(NOx)の排出量を1970-1971年型の1/10以下にする
ことをそれぞれ義務付け、達成しない自動車は期限以降の販売を認めないという内容であった。
1972年には1976年型の基準が定まった。窒素酸化物に対しては0.4g/マイルと規定されている。
自動車の排気ガス規制法として当時世界一厳しいといわれ、クリアするのは不可能とまで言われたものであった(実際には日本のホンダがCVCCを開発してクリアしている)。
そのため、自動車メーカー側からの反発も激しく、実施期限を待たずして74年に廃案となってしまった。しかしながら、排気ガス規制自体は徐々に進み、1995年にはマスキー法で定められた基準に達した。
ただ、日本のように車検制度がない為、新車登録を済ませてしまえば後は違法改造されてもまず検挙されることはなく、ザル法であるという意見もある(その為、日本が自動車メーカーに一律に規制を施行し、対象形式全てを1〜3年の車検で検査する日本の昭和53年規制の法が厳しいとも言われる)。
日本ではマスキー法の成立を受け、中央公害対策審議会での審議が始まる。1978年からはマスキー法で定められた基準と同じ規制が実施されている。
7月:いざなぎ景気終了クメール共和国(1970年 - 1975年)
:親米のロン・ノルがシハヌークの外遊中にクーデターを決行し、シハヌーク一派を追放、クメール共和国の樹立を宣言
(10月9日)
ロン・ノルは翌4月、ベトナム戦争のホーチミン・ルートを粉砕するためにアメリカ軍のカンボジア侵攻を許可。 国民の不人気を買う
カンボジア内戦:シハヌークは中国(北京)へ脱出し、「カンプチア民族統一戦線」を結成した
。彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。10月、ポル・ポトはシハヌークを擁立してロン・ノル政権との間で内戦
となった |
1971 |
MVアグスタ:WGPの500cc ワールドチャンピオン MVアグスタ:WGPの500cc メーカータイトル MVアグスタ:ドメニコ・アグスタ伯爵死去 弟のコラード・アグスタが後継
中山サーキット:岡山県和気郡和気町に開設。運営:(株)山陽スポーツランド 3番目に古い、全長1550m
ニクソン・ショック
ニコソン政権が発表した新しい方針。 既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換を言う。両者を併せて「二つのニクソン・ショック」と呼ばれることもある。
1、ドル・ショック:1971年8月15日:ドルと金との交換停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終了と変動為替相場制
突入を告げた声明
2、ニクソン訪中宣言:1971年7月15日:ニクソン大統領の中華人民共和国への訪問を予告する宣言から、翌1972年2月の実際の北京
訪問にいたる一連の外交
12月の蔵相会議では、円は、¥360-から、¥308となり、17%切り上げられた。
よど号ハイジャック事件
日本万国博覧会(大阪万博)開幕(3月14日〜9月13日)
マクドナルド日本第1号店「銀座店」、三越銀座店脇にオープン
中津川フォークジャンボリー終了
中国:林彪がクーデター失敗、墜落死。
中華人民共和国が国連加盟、中華民国(台湾)は事実上の追放。
カンボジア:アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させた。10月、ロン・ノルは軍事独裁体制を宣言
第3次印パ戦争(12/3開戦、インドが東パキスタンに侵攻、12/16:終了)
アラブ首長国連邦、七首長国により建国
エジプト: アスワンダムの公式開通 |
1972 |
MVアグスタ:WGPの500cc ワールドチャンピオン MVアグスタ:WGPの500cc メーカータイトル FBモンディアル:解散 西日本サーキット:山口県美祢市に開設、全長2815m、反時計回り、当初の名称は「厚保(あつ)サーキット」
1972年、ノートンはBSA-トライアンフ合弁企業グループと合併し、ノートン・ヴィリヤース・トライアンフ(NVT,
Norton Villiers Triumph)となります。ノートンも、ほとんどの
カの上院議員、エドムンド・マスキーの提案によるためこの通称で呼ばれる。 正式には大気浄化法改正案第二章と言う。
特に、自動車の排気ガス規制に関してこの用語は引き合いに出されることが多い。
内容としては
* 1975年以降に製造する自動車の排気ガス中の一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)の排出量を1970-1971年型の1/10以下にする
* 1976年以降に製造する自動車の排気ガス中の窒素酸化物(NOx)の排出量を1970-1971年型の1/10以下にする
ことをそれぞれ義務付け、達成しない自動車は期限以降の販売を認めないという内容であった。
1972年には1976年型の基準が定まった。窒素酸化物に対しては0.4g/マイルと規定されている。
自動車の排気ガス規制法として当時世界一厳しいといわれ、クリアするのは不可能とまで言われたものであった(実際には日本のホンダがCVCCを開発してクリアしている)。
そのため、自動車メーカー側からの反発も激しく、実施期限を待たずして74年に廃案となってしまった。しかしながら、排気ガス規制自体は徐々に進み、1995年にはマスキー法で定められた基準に達した。
ただ、日本のように車検制度がない為、新車登録を済ませてしまえば後は違法改造されてもまず検挙されることはなく、ザル法であるという意見もある(その為、日本が自動車メーカーに一律に規制を施行し、対象形式全てを1〜3年の車検で検査する日本の昭和53年規制の法が厳しいとも言われる)。
日本ではマスキー法の成立を受け、中央公害対策審議会での審議が始まる。1978年からはマスキー法で定められた基準と同じ規制が実施されている。
カシオミニ発売
沖縄返還
横井庄一氏発見
札幌オリンピック
連合赤軍あさま山荘事件
高松塚古墳にて、壁画発見
千日デパート火災
テルアビフ空港での日本赤軍乱射事件
日中国交正常化
ウォーターゲート事件
ベトナム:アメリカ軍、地上軍撤退、北爆再開
ミュンヘン・オリンピック事件(中東ゲリラによるイスラエル選手の虐殺)
カンボジア:ロン・ノル軍事独裁政権は新憲法を公布 |
1973 |
MVアグスタ:WGPの500cc ワールドチャンピオン MVアグスタ:WGPの500cc メーカータイトル
イギリス政府の肝いりで、BSAとノートンが合併 ノートン・ビリヤーズ・トライアンフ(NVT)を設立。 3社の合弁となり、生産体制も縮小されたため、73年には750ccモデルがラインナップから消えました。
ビモータ・メカニカ:活動開始、オート−バイ専業メーカーに
RSC:設立
オイル・ショック:第四次中東戦争を契機に、21%の値上げ、減産、イスラエル支援国への禁輸、1974年から、100%の値上げ
ホンダ:シビック・CVCC発売
山陽特殊鋼問題を契機に、太陽銀行と神戸銀行が合併し、太陽神戸銀行誕生
金大中事件
日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件:当時の福田首相は、「人名は地球より重い」との迷言をかき、超法規処理で、日本赤軍、ならびに、一般の刑時犯を釈放。国際的な嘲笑を買う。
ベトナム:アメリカ、ベトナムから完全撤退
カンボジア:アメリカがベトナムから完全撤退したため、ロン・ノルは強力な後ろ盾を失ってしまう
第四次中東戦争
変動相場制 |
1974 |
MVアグスタ:WGPの500cc ワールドチャンピオン
スズキ:GPに再参戦
富士スピードウェイ(FSW):30度バンクの使用を中止、富士GC・第2戦の死亡事故が直接の契機
アゴスチーニ:YAMAHAに移籍マスキー法:
自動車業界の反対に合い、実施前に廃案
ペトロナス(マレーシア:国営企業、石油及びガスの供給):設立
ラオス:三派連合によるラオス民族連合が成立 |
1975 |
ノートン:NVTへの公的資金の投入を打ち切り。 弁済整理のためにNVTエンジニアリングとして存続。1977年まではコマンドー
を生産
浅間高原自動車テストコース閉鎖(浅間牧場との契約満了) ヤマハ:菅生サーキットを宮城県柴田郡村田町菅生に開設 浅間ミーティングクラブ:活動開始
ベトナム戦争:サイゴン陥落、ベトナム戦争が終結
カンボジア:ロン・ノルはハワイに亡命。 クメール・ルージュが首都プノンペンに入城
ラオス:パテート・ラーオがラオス全土を制圧、同年12月に王政を廃止してラオス人民民主共和国を樹立。 |
1976 |
MVアグスタが:GP撤退、通算3027回の優勝 270回のWGPでの勝利 37個のタイトルを獲得 富士スピードウェイ(FSW):F-1開催
カンボジア:カンボジア民主国憲法を公布、国名を民主カンプチア(Democratic
Kampuchea)(~1979)に改称
メール・ルージュは、共産主義にもとづく強力な農業本位と民族主義を打ち出した。プノンペンを始め、中産階級的な都市住民を強制的に農村に入植させ、強制労働を科した。エリート階級や留学生、クメール・ルージュ組織内部のスパイは、政治犯収容所S21(現トゥールスレン虐殺博物館)などに収容、200万人を超えるともいわれる虐殺・粛清を行った。
IMF暫定委員会にて、変動相場制が正式承認(キングストン協定) |
1977 |
NVT:倒産、 ジョバンニ・アグスタ航空会社:コラード・アグスタ 社業を航空機に一本化、MVアグスタによるオートバイの生産ラインを停止し完全撤退 富士スピードウェイ(FSW):F-1開催、死亡事故で、以後は開催中止 |
1978 |
ハーレー:アエルマッキとの提携を解消 カジバ:創設 カスティリオーニ兄弟がアエルマッキのオートバイ部門を買収 パリダカ・ラリー(正式名称:ユーロミルホー・ダカールラリー)開始(1978年12月26日)
ノートン・NVT:ヴァンケルエンジン(ロータリーエンジン)は、1978年、NVT倒産後にその研究部門を基盤に設立されたノートン・モータース(Norton
Motors)によって製品化された。
YAMAHA:YPVS発表
第2次オイルショック:
イラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。
しかし、第一次での学習効果、省エネルギー政策の浸透(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第一次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた)、企業の合理化効果などにより、日本経済に対する影響は第一次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第一次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。
排ガス規制始まる:マスキー法に準拠
カンボジア:ベトナムと国境紛争を起こし、ポル・ポトはベトナムと断交。この頃、ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、
カンボジアと中華人民共和国の関係から、中ソ対立の構図がアジアに再現。ベトナムに亡命中だったヘン・サムリン
の率いる「カンプチア民族救国統一戦線」とともに、ポル・ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻 |
1979 |
FBモンディアル:解散
富士スピードウェイ:廃止問題勃発、契機は、レース開催時の暴走族問題ノートン・NVT:79年にプロトタイプ「Mark I」が供給開始、81年にMark II(後にインターポールII(Interpoll
II)となります)が発売されます
HONDA:楕円ピストン、気筒あたり、8バルブ、モノコック・ボディのNR500で、WGP500に復帰
カンボジア:ヘン・サムリン政権(1979年 - 1991年)
をベトナムが支援
1月6日、ベトナム軍がプノンペンを攻略、監禁状態だったシハヌークは再び北京へ逃亡、ポル・ポト、イエン・サリら
クメール・ルージュ はタイ国境近くまで駆逐される。1月10日親ベトナムのカンプチア人民共和国(People's
Republic of Kampuchea)が樹立され、ヘン・サムリンは書記長に就任したが、ベトナムの傀儡政権であるとして世界各国の承認を得られなかった。
同年2月には中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかし、中国は戦争慣れしたベトナム軍に惨敗し、3月には撤収した。1981年6月にサムリンは新憲法を採択し、同時期フン・センが閣僚評議会副議長(副首相)に就任する。 |