1918〜1944
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  •  1918〜 1944

    第一次世界大戦・終結 から、
    ファシズム、ブロック主義による国威発祥の手段としてのモータースポ−ツの発展
    第二次世界大戦の終結
     
    1918 第一次世界大戦:終結
    ドイツ革命、ヴィルヘルム2世退位によりドイツ帝国が倒れる。
    トライアンフ:新車開発に遅れ、1923年のモデルPまでは業績低迷
    BMW:BMW Bayerishe Motoren Weker AG(株式会社)になる

    SAEねじ
    アメリカ自動車技術会(Society of Automotive Engineers)がUSねじと基本山形が同じで、より細目のねじ二系列を発表したこれが SAEねじである。
    1919  第三次アフガン戦争終結、アフガニスタン:イギリスから独立
    1920 マン島TTレース:再開 マウンテンコース・ラップレコード:55.62mph(89km/h)
    Rondini・レーサー(ジレラ・レーサーの母体):Carlo Gianini、Piero Remor が並列4気筒レーサーの設計を開始、実業家・Count Bonmartiniが出資しGRB社を創業
    モト・グッツィ:創業
    1921 トライアンフ:高性能車:モデルR OHV4バルブエンジンを発売したが、高額であり販売不振 業績低迷
    1922 ファシ ズム台頭  ナチス・ドイツ、イタリア・ファシスト党は、宣伝の為にモータースポーツ、スポーツを利用。 ダイムラーベンツから、BMW・モーターサイクルへのスーパチャージャーの提供、カプローニ航空機会社から、ジレラへのRondiniの売却等は、あらゆるモータースポーツ、スポーツで勝利し、宣伝し、国威発祥の道具として使用する方針によるものと言われている。1936年のベルリン・オリンピックの映像はこの手の最高傑作である。

    バイエルン航空機製造会社(Bayerische Flugzeug Werke(BFW)と合併。社名は引き続きBMW。

    本田宗一郎:アート商会(東京・湯島)に入社
    1923 1923年:『マンクス・アマチュア・ロード・レース(MARC)』開始:マン島TTレースのアマチュア・ライダー版 コースは同じマウンテンコース、サイドカーは無し

    ジョバンニ・アグスタ航空会社:設立 固定翼機の生産、整備
    BMW:2輪車の製造を開始。

    トライアンフ:超低価格車モデルP販売

    関東大震災
    1924 マン島TTレース:ジュニアTTレース:ニュー・インペリアル:平均時速は55.67mph。AJS:で35分5秒/64.54mphの新周回記録 (初の60mph台)軽量TTおよびセニアTTレース:4周 4時間5分3秒 55.44mph。セニアTTレース:ノートン:6周 3時間40分24.6秒  61.64mph

    T型フォード:1000万台
    クロムウェル:創業(製品は兵士のヘルメット)

    ヴィンセント:R・デイビスがHRD株式会社創業
    ロイヤル・エンフィールド:最初の4ストローク単気筒350cc車を発売

    1925 アリエル社:J.A.P.からデザイナー:ヴァル・ペイジを引き抜く
    GRB:出資者 ・Count Lancelotti を追加し、OPRAと改名、最初の490cc エンジン製造 28hp/6,000 rpm
    Piero Taruffiがライダー兼エンジニアとして参画 公称35hp、実馬力10hp、レースに参加するが、エンジンブローが続く
    1926 マン島TTレース:サイドカー、超軽量:がエントリー無し、で廃止 ほとんどのTTコースが舗装 アルコールベースの燃料禁止
    BMW:航空機製造部門をBFW社として分離(同社は1938年にメッサーシュミットと改称)

    ダイムラー・ベンツ:ダイムラー・モトーレン・ゲーゼルシャフト(ダイムラー・エンジン会社)と、カール・ベンツの会社が合併

    ユニファイねじ:アメリカ・イギリス・カナダの三国が、軍用品に用いるねじとして、オッタワで3国間のネジ協定が行われた。これがユニファイねじ。 イギリスのウイットウォースネジ、アメリカのアメリカねじ、フランスのメートルネジは、それぞれ別個の形で発達していった。しかし、第一次大戦のとき、連合軍側は、3つのねじ規格があることから、ねじの互換性のことで、軍事作戦上 、苦い経験をした。これが原因で、第二次大戦勃発直後、共通規格を策定

    昭和元年

    1927 マン島TTレース:予選中にアーチー・バーキンが事故を起こしたカーク・マイケルの角:バーキンズ・ベンドと命名
    アリエル:「アリエル・レッドハンター」250,557ccのサイドバルブ車、500cc OHVモデル 発売
    ノートン:TTレース用として、モデルCSを発表ウォルター・ムーア設計)マンクスの元
    ジョバンニ・アグスタ航空会社:ジョバンニが死去。妻のジョセフィーナ・アグスタが後継

    T型フォード:1,500万台 

    昭和元年
    アート商会・浜松支店:のれんわけで、「アート商会」から独立して、本田宗一郎が創立 自動車修理
    1928 マン島TTTレース:前年の馬車との衝突事故により、予選(プラクティス)時も道を閉鎖

    万国規格統一協会(ISA)が設立される

    BMW:ゴータ社からアイゼナハ製造工場を買収し、BMWアイゼナハ工場とする。

    HRD:デイビスが売却、ビル・ハンフリーが購入後売却 フィル・ヴィンセントが購入 「The Vincent HRD Company Ltd.」が誕生 本拠地:ハートフォード州スティーブンエイジ

    1929 世界大恐慌:10月24日にニューヨーク株式市場(ウォール街)で株価が大暴落したことに端を発した世界規模の恐慌 
    各国は金本位制を放棄し、弱い自由貿易体制が終焉

    トライアンフ:再び、業績低迷
    BMW:4輪車"3/15 PS"(BMW Dixi)の製造を開始。
    英国オースチン社:オースチン・セブンのライセンス生産。

    パレスチナ:パレスチナ人と入植してきたユダヤ人との間で、散発的に衝突が発生:例:嘆きの壁事件(1929年、ユダヤ教の断食月の最中(8/15)に、嘆きの壁えのデモ行進を行い、シオニストの旗を立て、後のイスラレル国歌を合唱)、8/16にアラブ側が嘆きの壁へデモ行進し、ユダヤ教の祈りの書、願い事の紙を焼却。 8/17:暴動が発生し、一人のユダヤ人が殺害され、葬式がデモに 8/23:アラブ人が殺されたとのデマ(?)で、ユダヤ人を襲撃、 以降、1週間、アラブ人によ暴動が継続、ユダヤ人--100人程度:殺害、300人程度:負傷。 鎮圧したイギリスにより、 アラブ人--100名程度:死亡、300人程度
    1930 マン島TTレース:マンクス・グランプリ・モーターサイクル・レース(Manx:マンクス:グランプリ)と名称を変更
    ノートン:マンクス(SOHC)登場 モデルCSをアーサー・キャロルとジョー・グレイクが設計変更 490cc、79mmmx100mm ベベルギア/シャフト駆動カム、クロスフロー2バルブ半球燃焼室、ボールベアリング支持組み立てクランク、アルミニウム鋳造クランクケース バルブ挟み角90° 圧縮比7.0:1
    OPRAの出資者BonmartiniL航空機製造会社:C.N.A. 創業
    BMW:航空機エンジン:プラット&ホイットニー社製のエンジンR-1690 ホーネット(空冷、星型単列9気筒、27.69L, 525-800hp以上)のライセンスを取得し、BMW132を設計・製造、後に複列化したBMW139(空冷、星型複列18気筒)を開発
    JU52(BMW132エンジン):初飛行 旅客機、輸送機 鋼管構造をベースに金属製外板を張った全金属製の機体 
    1931 AJS:シャフト式プライマリー駆動の横置き496ccV型二気筒のツアラー『S3』が売れず、破産、
    オートバイ関連の資産は、AMC傘下のマチレスに売却
    1932 トライアンフ・エンジニアリング車:業績が悪化したトライアンフは、1932年には自転車部門をラレー社(Raleigh)に売却。オートバイ部門では新たな主任技師ヴァル・ペイジ(Val Page)を迎えて新規車種の開発を開始

    日中戦争、盧溝橋事件、中ソ不可侵条約、中国共産党八路軍結成
    1933 ナチス・ドイツ:政権奪取
    C.N.A/OPRA:Gianiniにより、完全再設計、水冷並列4気筒:Rondiniの完成 Taruffiは在籍 Taruffiの乗車で153mphの500cc速度記録を更新
    C.N.A/OPRA:Bonmartini:Rondiniを含む航空機ビジネス(C.N.A.)をカプローニ航空機会社に売却し引退


    ねじの規格:
    その後1933年からアメリカ規格協会(American Standrd Association)が以上のねじ規格を整理して
    NCねじ(American national coarse screw threads)
    NFねじ(American national fine screw threads)
    NEFねじ(American national extra fine screw threads)
    及び8N,12N、16Nねじなどを発表し1938年からそれまでの
    USねじ、ASMEねじ、SAEねじに替わって用いることになった。

    1934 モト・グッツィ:。初のイギリス製以外のマシンによるマン島TT勝利という栄冠を 、初のイギリス人以外のライダーが達成するという歴史に残る快挙を成し遂げる。

    トライアンフ・エンジニアリング社:トライアンフ社に社名変更 自動車部門の低迷が財務を圧迫

    ヴィンセントHRD:「Series A ヴィンセントHRD」496ccハイカムOHVエンジン生産 アービング設計

    1935 BMW:テレスコピック・フォークを設計

    マン島TTレース:ジレラ・Rondine: 1位、2位

    アウトバーン:ランクフルトからダルムシュタットまでの最初の区間が開通  航空機の離着陸が可能な設計

    Taruffi:カプローニ航空機会社から、Rondiniの売却を指示される
    ジレラ:カプローニ航空機会社(Caproni Aircraft company )から、スーパーチャジャー付き4気筒・Rondine・レーサーの権利を購入、ジレラ・レーサーとなる。 水冷並列4気筒60ps/8,500rpm 

    1935年アメリカのウォーレス・カロザスが、石炭からナイロンを製造。

    1936 ヴィンセントHRD:「Series A Rapide」988cc 50度V2エンジン 100mph(160km/h)発売
    ノートン:マンクスのリヤ・プランジャーサスを装備
    トライアンフ社:オートバイ部門が、ジャック・サングスターに売却(アリエルを再生)され、自動車部門と分離
    社名をトライアンフ・エンジニアリング社に戻す。主任技師:エドワード・タ−ナー

    スペイン内戦:各国の最新鋭航空機の試験場となる。 Bf109戦闘機、He111爆撃機、Ju67スツーカ

    ベルリン・オリンピック レニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』製作

    スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)

    海軍:九六式艦上戦闘機(全金属製低翼単葉機、沈頭鋲を全面採用、固定脚):生産開始
    陸軍:キ27 中島九七式戦闘機:生産開始
    1937 本田宗一郎:「東海精機重工業株式会社」(現・東海精機株式会社)の社長に就任。「アートピストンリング研究所」創立


    南京侵攻、南京事件
    1938 BMW:R51にリヤ・プランジャー・サスを採用 シャフトがユニバーサル・ジョイントになる
    トライアンフ:8年に登場したスピードツインが再建への節目となった。この車種は当時並列2気筒というだけで珍しかったが、単気筒が全盛だった時代に単気筒車種よりもわずかに軽量で最高速も優るという性能で、車両価格は単気筒よりわずかに高いだけという設定が驚異的であり、スピードツインは大いに売れてトライアンフの財政を一気に好転させる一因となった。更に翌1939年にはスピードツインの高性能版としてタイガー100が登場、更なる高出力(34bhp)と最高速度(時速160km)で人気を博した。
    ノートン:マンクスにテレスコピック・フォークを装備



    BFW:BMWから分離した航空機製造部門:BFWがメッサーシュミットと改称
    国家総動員法発布(第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識による戦争体制)
    1939 マン島TTレース:BMWスーパチャージャ TTレース 1位、2位 マウンテンコース・ラップレコード:90mph(144km/h)

    第二次世界大戦:開戦
    スペイン内戦:終結
    フォッケウルフF190(複列14シリンダー星型空冷:BMW801エンジン、エンジン冷却ファン、モジュール式機体構成):初飛行
    BMW-139エンジンの冷却不足が判明 BMW801エンジン(空冷星型複列14気筒 ナトリウムによる排気バルブ冷却、燃料噴射装置、プロペラピッチを含むエンジン総合制御機構搭載)を開発 スーパーチャージャー搭載:エンジン駆動の1段2速機械式で、1速と2速の変速はDB601の様な流体継手では無い)

    空冷14気筒、41.7リットル、パワーは色々ありますが代表的なものは1770馬力(2,700rpm)でリッターあたり42.4馬力。 航空機エンジンはピークパワーよりも長時間の安定した稼動を優先するためか、回転数はあまり高くない。このリッターあたりの馬力は紫電改や疾風などの誉エンジンが55馬力くらいあったので、一見低いようですが、石炭から合成した人造石油などオクタン価の低い燃料で飛ばすことを前提としていたためだと言われています。

    コマンドゲラート(Kommandgerat)と呼ばれるメカニカルコンピューターとも言うべきコントロール装置で、大気圧センサーなどと連結し、燃料流量、混合気濃度、プロペラピッチ、点火時期、加給器切り替えなどを操縦席のレバー一つで総合的にコントロール

    DB05エンジンはV12の水冷エンジンで、35.7リットルで1800馬力。 ちなみに、日本の零戦のエンジンは中島飛行機製、スバルで知られる富士重工業の元 であり、日産に合併されたプリンス自動車の元ともなった会社。三菱重工も燃料噴射装置を備えたエンジンを当時の爆撃機、戦闘機用に生産

    本田宗一郎:アート商会を従業員に売却  現在も存続

    ノモンハン事件(満州、モンゴルの国境での日ソ武力衝突、日本軍の航空機軽視、補給の貧弱さを露呈)

    1940 マチレス:テレスコピック・フォーク開発

    1940年、ISA(International Federation of National Standardizing Associations)は
    チェコ・スロバキア、デンマーク、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ノルウェー、スイス、
    旧ソ連、フィンランド及びスウェーデンの同意を得て、メートルねじの並目、細目の全系列を
    ISAメートルねじとして発表した。

    伊藤正:アート商会・浜松支店から、独立して、自動車修理工場と自動車部品販売の会社「丸正商会」を創業

    日本がインドシナに侵攻

    1941 アリエル:テレスコピック・フォーク開発

    太平洋戦争:勃発(真珠湾攻撃)
    ユダヤ人:イギリスに協力
    1944 フォッケウルフF190D-4(ユンカース液冷エンジン、エンジン前部のリング状ラジエター)生産開始 700機

    第二次世界大戦中にはフィリップス社が屋外での無線用発電機としてスターリングエンジンを用いた。これはガソリンエンジンと異なり、ノイズ源となるスパークプラグをスターリングエンジンは持たないためである


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