1990 |
TIサーキット英田:岡山県美作市に開設 全長3703m。2本のストレートを合計13のコーナーで繋ぐテクニカルサーキット オートポリス:大分県日田市上津江町に開設 GP500:YAMAHA/YZR500、ウェイン・レイニー
カンボジア:東京で、「カンボジアに関する東京会議」を開催 |
1991 |
トライアンフ復活 Kawasakiの技術導入、水冷並列3気筒 ヨーロッパ:自動車規制:ユーロ1開始
ジレラ:1991年にはダカール・ラリーへ出場[3]。1992年からはGPにもマシンを送り出
す
西日本サーキット(山口県美祢市):コース改修、全長3330m、時計回りに変更 西日本サーキット(山口県美祢市):「MINEサーキット」に名称変更 2月:バブル景気終了 GP500:YAMAHA/YZR500、ウェイン・レイニー
カンボジア:カンボジア和平パリ協定が開催され、最終合意文章("国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)"の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施など)の19ヶ国による調印に達した。20年に及
よぶ内戦が終了 |
1992 |
ノートン:オートバイ生産を停止 ジレラ:1992年からはGPにもマシンを送り出し、2 オートポリス:運営会社が倒産 GP500:YAMAHA/YZR500、ウェイン・レイニー
HONDA:NSR500の点火時期を不等間隔位相同爆方式と呼ばれる技術を採用(通称:ビッグバン・エンジン)。2気筒の同爆(完全な同爆では無い)で、不等間隔点火。立ち上がりのタイヤ・グリップを改善したと追われる。
HONDA:NR(公道走行可能な市販車 750cc v型4気筒 オーバオール・ピストン 8バルブ/気筒) 300万円 |
1993 |
BMW:フロント・テレレバーをR1100RSに採用
トライアンフ:倒産 カジバ:CZを買収 ブガッティ:ロータスを買収 オートポリス:債権者が「大分阿蘇レーシングパーク」として運営を継続 |
1994 |
実業家ジョン・ブルーア)がトライアンフの商標権や生産権を購入 TIサーキット英田:F-1「パシフィック・GP」開催 |
1995 |
ペトロナス(マレーシア):F-1 ザウバーのメインスポンサー ブガッティ:破産 TIサーキット英田:F-1「パシフィック・GP」開催 オートポリス:上津江村(当時)に抵当権付きのまま無償譲渡、地元ボランティアが運営 WGP:サイドカー廃止
インド・REがロイヤル・エンフィールド」を獲得:REは1955年当時のビュレットを(多少の改良は加えられたものの)半世紀以上に渡って忠実に作り続け
ており、現在も生産をしている。 電装系は改善されている |
1996 |
プロトン:ロータスに出資、100%子会社にする |
1997 |
カジバがMVアグスタ・ブランドを取得
HONDA:NSR500を、ビッグバン・エンジンの技術をベースに、かつての等間隔爆発に近い点火順序を与えた仕様が登場(スクリーマー・エンジン 高回転で悲鳴の様な排気音なので、こう呼ばれた)。 特性はピーキーと言われる 当初はドーハンだけが選択、他のHONDAライダーはビッグバンを選択
ツインリンク・もてぎ:栃木県芳賀郡茂木町に開設、オーバル、ロードの2つのコースを設置 ダカール・ラリー:ワークスチームのプロトタイプカー、ガソリンターボエンジンを搭載しての参戦を禁止(ディーゼル・ターボは許可)
アジア通貨危機 |
1998 |
ノートン復活 コマンダーは水冷ロータリー・エンジン VW:ブガッティを買収 DUCATI:パシフィックグループ(テキサス)傘下に ツインリンク・もてぎ:ホンダ コレクション ホール 開設
WSB:コンストラクターズ・チャンピオンが設定される。 初代はDUCATI
HONDA:NSR500の標準はスクリーマーとなる。日本:オートバイ排ガス規制開始 ホットスタート(暖気後の計測) 12,000kmの性能保障 |
1999 |
FBモンディアル:イタリア出版界の大物であるラストラ社のロベルト・ジレッティ(Roberto
Ziletti)は、ボゼッリ兄弟の親族からFBモンディアルの権利を買い取る。 |